明智光秀(あけち-みつひで) 美濃〔頭〕


?〜天正10年(1582年)6月13日

十兵衛、惟任日向守。土岐氏の流れ、美濃明智城城主の子とも伝わるが定かではない。むしろ『当代記』にある、「一僕の者、朝夕の飲食さへ乏しかりし身」というのが真実に近いだろう。

良質の史料を介して光秀が歴史の舞台に登場するのは、信長が義昭を奉じて入京する永禄11年(1568年)9月より後のことである。ただその後の行動より推して、義昭あるいは幕府と、以前から接触があったらしいことは推測できる。

永禄末から元亀年間にかけて、光秀は信長の重臣達に混じって京畿の政務にあたる。元亀2年中には、信長から志賀郡の地と坂本城を与えられ、堅田衆ら志賀郡の士を与力として付けられた。

しかし光秀は、一方では幕臣の性格も併せ持っており、義昭からも知行を受け、北山城の支配を委ねられている。

天正元年(1573年)、義昭が追放され、光秀は信長の臣、しかも重臣の1人として専念するようになる。京都所司代として置かれた村井定勝の補佐を光秀が受け持った。経歴と能力が認められたのだろう。

同3年6月、光秀は丹波経略の命を受け、軍を率いて入国した。敵は赤井氏。後に波多野氏も敵となる。丹波方面を担当しながらも、光秀はそれに専念できない。越前、大坂、雑賀、大和、更には播磨の秀吉を助けたり、有岡へ赴いたり、東奔西走の年月が続いた。

天正7年になって波多野氏・赤井氏が次々と降り、ようやく丹波の平定が成った。光秀は細川藤孝と共に丹波をも服従させた。丹波が光秀に与えられたのは翌年7月頃のことである。亀山在城。

光秀の丹波平定については、信長が佐久間父子譴責状の中で「天下の面目をほどこし候」と賞賛したほどの働きであった。そして光秀は丹後の藤孝、大和の筒井順慶を軍事指揮下に置き、「近畿管領」ともいうべき大役を担うことになる。

謀反については多くは触れない。未だにそれは歴史上の謎である。山崎の戦で敗れて土民に殺された時、55歳だったと言うが、67歳とする説もある。

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織田信長家臣団 ア行