朝山日乗(あさやま-にちじょう) 出雲〔外〕


?〜天正5年(1577年)9月19日?

日乗朝山とする説が多いが、朝山宗左衛門という弟が『言継卿記』に見える。「朝山」は姓であろう。

出雲出身の僧で、尼子氏に背いて毛利氏の下に逃れたと言う。その後上京。禁裏と繋がりを持った。

永禄11年(1568年)、信長が上洛すると、禁裏より信長との仲介者として起用され、信長の信頼を得た。翌年、信長より伊勢の地を宛がわれている。その後、信長の臣と一緒に活動することが多い。

長年の念願だった禁裏の修理は、永禄12年5月より始まる。日乗は村井貞勝と組んで、奉行を務めた。

信長家臣の一面も持つ日乗は、その意を受けて毛利氏との外交にも努めている。この頃対面した毛利家の使僧安国寺恵瓊は、日乗を「昔の周公旦、太公望のごとくに候」と絶讃している。

一方日乗は、将軍義昭の信任も得ていた。永禄12年、早くも義昭と信長との間に亀裂が生じ、最後、天正元年(1573年)に義昭が追放されるが、その間、日乗は両者の和睦のため尽力している。

将軍追放後はさしたる活躍も見られず、日乗の姿は間もなく歴史の表面より消える。病のため倒れたのであろうか。

キリスト教に異常なほどの憎悪を抱き、宣教師の追放を画策した人物として、その方面での評判はすこぶる悪い。いずれにしても、禁裏・将軍・信長という3つの権力の間で奔走した怪僧であった。

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織田信長家臣団 ア行