猪飼昇定(いかい-のぶさだ) 近江〔与〕


生没年不詳

甚介。実名は「貞尚」「正勝」などが伝わるが、文書の署名によって確かめられるのは、「昇定」である。志賀郡堅田の土豪。

元亀元年(1570年)11月、同じ堅田衆の居初又次郎・馬場孫次郎と共に信長に降る。同月25日、堅田に朝倉・浅井の攻撃を受け、信長の部将坂井政尚は討死するが、昇定は舟に乗って信長陣所へ逃れたという。

以後は、志賀郡の一職支配を委ねられた明智光秀の与力となったが、琵琶湖の水運と漁業を統轄するなど、かなりの独立した権限を保っていた様子である。朽木元網等と共に、高島郡の信長蔵入地の代官をも務めていた。

だが、天正10年(1582年)4月22日付の昇定下代による、伊崎立場の猟場米請取状を終見として、その名は史料より消えている。本能寺の変後光秀に味方し、山崎の戦に参加して、討死したものであろうか。

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織田信長家臣団 ア行