池田恒興(いけだ-つねおき) 尾張〔将〕


天文5年(1536年)〜天正12年(1584年)4月9日

勝三郎。入道号勝入しょうにゅう。長男元助は紀伊守を称するが、父恒興の任官については明らかではない。それにも関わらず、父子混同したものか、恒興は記録類にさえしばしば「紀伊守」と書かれている。また「信輝」と伝えられるが、これは訛伝かでんである。

母は、信長の乳母養徳院。即ち信長とか乳兄弟である。摂津の池田氏の流れというのは、家柄を誇示するための潤色で、元来海東郡の人であろう。

幼児から信秀に、次いで信長に仕え、海津の戦・稲生いなうの戦・桶狭間の戦に従軍して功名というが、確実な史料のみに拠れば、永禄4年(1561年)5月の軽海かるみの戦で、敵将稲葉某を佐々成政と2人で討ち取ったという『信長公記』の記事が初見である。

信長入京後も大河内おおこうち城攻め・越前攻め・槙島まきのしま城攻めなどに従軍。この頃の戦いで恒興が特に目覚しい活躍をしたのは、元亀元年(1570年)6月の姉川の戦である。この時恒興は。丹羽長秀と共に家康軍の加勢となって朝倉軍と戦い、勝利への端緒を開いた。この頃の身分は小なりとはいえ、一応部隊指揮官。佐々成政ら馬廻うままわりよりは大身といったところだろうか。

天正2年(1574年)2月、美濃明智城後巻きのため出陣した後、小里おり城に入れ置かれる。これは同じく神箆こうの城に置かれた河尻秀隆と並び、信忠軍団の最前線の役割を担ったものである。恒興は以後5ヵ年近くの間、東美濃で働いていたらしい。

天正6年11月、久々に美濃を離れて摂津有岡攻めに参加。翌々年までその地に居て、花隈はなくま城を攻略し、荒木の残党を摂津より一掃した。

その功により摂津の地を与えられ、有岡に入城。天正9年8月の中国攻めの用意の命の中に、摂津にて「池田勝三郎大将として」とあることから考え、摂津全体の軍事指導権を委ねられたのかもしれない。

本能寺の変の時にはまだ摂津にとどまっており、東上する秀吉軍に合流して、山崎の戦に参加する。

その後賤ヶ岳の戦・小牧に戦と、一貫して秀吉に味方。天正12年4月、長久手に軍を進めたところを家康軍に攻撃され、討死した。

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