池田元助(いけだ-もとすけ) 尾張〔将〕


永禄2年(1559年)?〜天正12年(1584年)4月9日

勝九郎・紀伊守。実名を「之助」とするのは、元助の誤写が伝わったものであろう。恒興の長男である。

良質史料に見る限り、初めての参陣は、天正6年(1578年)12月の有岡城攻めであり、この時父と共に有岡への付城倉橋砦に入っている。有岡城陥落後も摂津に残り、花隈城を落とした。この戦いの功により、信長より名馬を賜わった。

天正9年2月の馬揃えでは、弟輝政と2人で参加し、父恒興は伊丹に残った。この頃より父を離れて軍を率いることが多く、同年11月の淡路岩屋攻め、翌年3月の甲信出陣、5月の中国救援(出陣なし)など、いずれも池田軍の総指揮官を務めている。若年ながら、信長にその将才を認められていたのだろう。

本能寺の変後、秀吉方として山崎の戦に参加し、父が大坂に移った後伊丹城主となった。賤ヶ岳の戦の後、父が美濃を与えられると大垣城に移った。小牧の戦でも秀吉に加担したが、天正12年4月9日、長久手で家康の軍と戦って父と共に討死した。享年26歳だったという。21歳説は誤りであろう。

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