一雲斎針阿弥(いちうんさい-しんあみ) 尾張〔同〕


?〜天正10年(1582年)6月2日

信長の同朋衆。信長の側近として副状そえじょうを発給したり使として派遣されたりと、奉行衆と似た役割を務めている。だが天正7年(1579年)付の法隆寺宛ての楠木長諳ちょうあんの書に副状を発しているところを見ると、同じ側近でも長諳の方が地位は上のようである。

天正7年頃は主として法隆寺のことを担当。多数の書状が『法隆寺文書』中にある。その他箸尾為綱・興福寺大乗院・薬師寺など、大和国衆や寺院との接触が見られる。

本能寺の変の時は信長の傍らにあって、討死した。

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織田信長家臣団 ア行